HOME

取り組んできた地域活動のテーマは、                                           「狩野川」「景観」「バリアフリー」です。

このホームページでは、うちだたかひさの活動を紹介します。   

 

 

議員になった平成25年からの議会一般質問を整理してみました。↓

「伊豆の国市議会だより」より転載

平成25年6月議会一般質問

平成25年9月議会一般質問

平成25年12月議会一般質問

平成26年3月議会一般質問

平成26年6月議会一般質問

平成26年9月議会一般質問

平成26年12月議会一般質問

平成27年3月議会一般質問

平成27年6月議会一般質問

平成27年9月議会一般質問

平成27年12月議会一般質問

平成28年3月議会一般質問

平成28年6月議会一般質問

平成28年9月議会一般質問

2016年

8月

16日

よりともジャパン議員連盟、設立!

源頼朝が韮山で挙兵して鎌倉幕府を作りました。その関係市町の議員が一同に集まって、よりともジャパン(源頼朝観光推進議員連盟)を設立しました。鎌倉市議会の前川会長が決まり、私が事務局長でスタートしました。古い歴史を生かした新しいまちづくりに挑戦します。

0 コメント

2014年

11月

09日

11/9北條時政没800年忌法要

毎年、守山八幡宮例大祭の前に願成就院で伊豆の国市子ども創作能の子ども達は、御本尊様の前で、謡を披露しています。「議会だより」の表紙に運慶作仏像の写真を使用させていただきました。そんなご縁で、このような大きな催事にお招きいただきました。なかなか、経験出来ないことでした。

0 コメント

2014年

9月

26日

9/26狩野川台風の最大の被災地熊坂に立って

 狩野川台風の最大の被災地熊坂に立って               高塚武夫             【自己紹介と壇上にいる理由】

狩野川台風で全壊した熊坂地区に最初にたどり着いた新聞記者として当時を語れとのことで狩野川台風の教訓を風化させないため何かお役に立つことがあればとの考えからです。私高塚武夫と申します。

どうぞよろしく。

当時、私は29歳直前で静岡新聞、SBS静岡放送の清水支局長を仰せつかっておりました。

お話をお受けしたものの、私自身、被災したわけでも、復興にたずさわった訳でもなく、まして熊坂地区に滞在したのは9月27日の午後2時間足らずです。被災前の熊坂の姿を知らない私何を語り、何を伝えすればよいのか今も悩んでいるところです。熊坂地区の数字的具体的な被害状況、被害の全容は専門的に調査された行政機関におまかせするとして、私の報告は昭和33年9月27日の昼過ぎの熊坂および、その周辺の被害の印象が中心となりますことをご了承ください。

また、私は85才と云う老齢です。話があらぬ方向に走ってしまっては迷惑をおかけしますので、この様な大きなメモを用意してきました。これに従って話をすすめてまいりますがメモをペラペラさせるなど見苦しいところをお見せするかも知れませんが、この点も併せてご容赦願います。

【狩野川台風のあった昭和33年とはどんな時代だったのか】

今から56年前のことです。半世紀前のことです。下世話に10年ひと昔といわれますが、昔々の話であり、昔々の出来事です。

現天皇がまだ独身皇太子で美智子さまとご結婚される7か月前のことです。

国道一号線はともかく一般道路は道幅がせまく、ほとんどが未舗装のデコボコの砂利道でした。

人々の移動手段は、徒歩をはじめ自転車、バス、電車でした。オートバイはある程度普及していました。タクシーはありましたが一般の人が利用することは、ごく稀れなことで、今のような自家用車の普及は夢のまた夢の時代でした。

電話はボツボツ、ダイヤル式になっていましたが、金銭的にも物理的にも一般家庭にはまだまだの状況で公共施設や大きな商店などが中心でした。今のような便利な携帯電話など想像すらできない時代でした。

テレビもまだ白黒であまり普及しておらず床の間に飾って見ていたという、いわばテレビは宝物の時代でして静岡県内で民間放送の試験放送を開始されたのは33年11月1日で、前回の東京オリンピックが開かれ、東京~大阪間に新幹線が開通したのは狩野川台風から6年後のことです。

今、政治家として評価が高まっている暗殺されたアメリカのジョン・Fケネディが大統領に就任したのが2年半後です。

また、鉄の女と云われたサッチャー夫人が首相になったのは11年後であり中国に文化大革命がおこったのは8年後です。

【伊豆とは感覚的にどんなところか】

申しますと地元にお住いの方は別として、まだまだ一般の人には縁遠い秘境の温泉地でした。まだ、戦後13年しか経っていない時で戦後の混乱を陰に陽に引きずっている時代でした。私の個人的な表現ですが、伊豆とは、いつか一度は訪ねて見たいあこがれの高級温泉保養地でした。熱海、伊東、長岡、修善寺、湯ヶ島、下田、今井浜とか河津、大仁金山、土肥金山などなど大金持ちや特別な人達の行く夢の旅行先であり新婚旅行先といった感じのところで、物語とか歴史あるいは地図の上で地名を知っているだけのところでした。

勿論、長岡も熊坂も私にとっては初めての伊豆でした。当然、熊坂地がどこにあって、

どんなところか全く知識はありませんでした。

「行けばなんとかなるだろう」と云う記者根性が先走りして予備知識0のまま、社からの打診をこれ幸いと現地取材に応じました。本社からの打診が午前8時頃でした。「明日の朝刊に記事と写真を。」と云うのが唯一の指示でした。考えてみれば新聞社らしい大まかな指示。好意的に見れば、なんと自主性を重んじた指示だろう今になって感心しています。

【どんな準備をして、どこを通って熊坂へ到着したのか】

本社からは、運転手付きジープ1台のみ。あとは自分で考えろと云うわけです。災害地取材には充分な弁当と少し多めのタバコをというのが当時の記者の常識でした。現地では入手困難だからです。部下2人と共に午前10時近く清水を出発しました。

どこをどう走って長岡の辿りついたのか全く記憶がありません。今、あるかどうか知りませんが、富士山側に沼津市立病院が見える国道一号線が狩野川の氾濫で池になっていました。車ごと立ち往生し、抜け出すのにひと汗かいた事は覚えています。

それからは、すべてが初めての道でした。行き止まりや通行止めに出会っては反転し、又右へといった具合でした。すべてデコボコの砂利道でした。

これ以上進めない行き止まりの場所が、長岡温泉街のはずれにあった当時建設省の道路工夫の詰所前のちょっとした広場でした。

 そこには熊坂全滅の情報で熊坂入りを模索しているであろう多くの先着報道陣でゴッタ返っていました。

【さて熊坂へ】

いよいよ熊坂を目指すわけですが、どうしたものか目の前の濁流を眺めながら思案しているところへ、40才位の道路工夫が通りかかりました。熊坂への道を尋ねましたが何を聞いても返事のない無口な男性でした。が、不思議と道案内の交渉は成立しました。私服に着替えて現れ「ついて来い・・・」と目で合図。熊坂への道は開けたのです。交渉過程、やその内容は企業秘密に属しますからお話しできませんが、タバコが役に立った事だけは、お伝えしておきます。

目の前の濁流を少し上の方で渡り、山の斜面を上へ上へと這い登り、台風で出来たであろう沢をいくつか渡って1時間くらい歩いたと思います。急に視界が開けた時「あれが熊坂だ・・・」と云われ、指さす方向を見ると単なる平地があるだけです。運動場や野球場が何面もとれそうな白茶けた平坦な土地があるだけです。案内してくれた男性は「家に帰る・・」とだけ云って、去っていきました。

 教えられた山道を山の斜面を滑るように駆け下りてして平地にたどり着きました。平地は砂浜を歩く時のようなやや不安定な感覚の地面でした。

 よく見ると大仁橋寄りに火の見櫓が1本と民家らしい建物が1~2軒の他は、何もありませんでした。感覚的な表現をするならば、火の見櫓以外は何もない平地と云った方が正しいかも知れません。やっと平地にただ1本立っている火の見櫓に辿りついた。そこに50才位の男性が3~4人呆然と立っていました。そして私たちを快く迎えてくれました。

 今、熊坂交番と消防団のポンプ置き場の脇にある火の見櫓は災害後、建てられたもので、

私達が見た火の見櫓は交番より国道136号線寄りに150m程、行ったところの道路右側で、今は農地になっているところにあったそうです。先日、下見に訪れた際「住民に避難の半鐘を打つため火の見櫓に登った」という男性に偶然出会い教えていただきました。

【熊坂で見たものは】

富士山に向かって右手前方には大仁橋のアーチが1つ。台風前にはアーチが2つあったが、流されてしまったと。左手の山の斜面中腹に小さな川船が一艘ひっかかっていた。今歩いて来たあの山だ。川舟がひっかかっている少し上には神社があるとその人達が教えてくれました。地元の方々ならば、その神社をご存知でしょうし川舟のひっかかったところの高さもお分かりになろうかと思います。今考えれば川舟のあったところは水面から7~8m位のところだろうと思いますが当時はあんな高いところにとアゴを突き出して見上げたことを覚えています。

日本ばかりではなく地球上の各地で様々な天災が発生し災害が起きています。新聞やテレビで伝えられる情報は爪痕も生々しく倒壊家屋や流木の山、堆積した土砂など写真やテレビ画面を見ただけで、そのすさまじさ、恐ろしさを実感することが出来ますが、熊坂の場合は、白茶けた平坦な土地に火の見櫓が1本立っているだけで、災害前の熊坂を知らない私どもは地元の方々の話を聞いても失礼ですが、ただ耳を疑い、目を疑うばかりでした。ここに集落があったなどと想像することは無理でした。

【28日の朝刊に間に合わせるため帰りを急ぎました。】

残された大仁橋の橋脚を縄バシゴでよじ登り、田京、南条と北上し、長岡の千歳橋を命がけで渡って待っていたジープと合流できたのは6時近かったと思います。

大仁橋のたもとは修善寺温泉からの避難してきたと云う和服姿の婦人グループ2組が縄バシゴ、竹バシゴの順番を待っていました。手荷物を振り分けにして肩にかけ何を聞いても「恐ろしかった街中が川だった・・」とだけしか言葉はなく、まだ、26日の夜の恐怖から抜け出ていない有様でした。橋のたもとには大仁町の方々でしょう大勢の方が忙しく立ち働き、一生懸命に避難者の手助けをしていました。

私達は何か情報がないかと大仁駅前の新聞販売店をたずねました。店主は不在でしたが長身の美青年が「大仁地区は道路が川のようになったが大きな被害はなかった。この台風の恐ろしさは・・・」と私達を大仁小学校の体育館へ案内してくれました。ズラリと柩が並べられ線香がたかれていました。収容された遺体です。30体以上あったと記憶しています。その時はまだいずれも身元不明でした。

「余分な説明はいらない・・・」と案内者が云われましたが全くその通りで少しずつ狩野川台風の実態を目で見、肌で感じることが出来ました。

広瀬神社を左に見て長岡方面へ歩きました。途中南条付近では、伊豆箱根鉄道の線路が土砂で埋まり、いたるところに家畜の死骸が白い腹を見せ、そして自転車が土の中から顔を出していました。人影ひとつなく殺伐、荒れ果てた風景でした。

千歳橋は、流木が橋脚や橋げたに引っかかって折り重なり川巾いっぱいに堆積し、アーチの上にまでからまっていました。勿論「通行止め」です橋がいつ流出するかもしれないという状況でしたが、警備の方と話している内に運よくOKがでて、渡りはじめました。     

アーチ上の流木は私達を威圧し、支えにつかまった流木は頼りなく揺れ動き、下流を見れば濁流が渦をまいていて、目がまわりそうになるなど、何とも恐ろしく、そして千歳橋が途方もなく長い橋だと感じたことを覚えています。

流された大仁橋、体育館に安置された柩の数々、千歳橋をからめとらんとばかりに堆積した流木の山・・・などを見た時、熊坂の集落が「一瞬にして呑み込まれ、押し流され、跡形もなくなった・・・」という言葉は本当なんだと納得し、理解することが出来ました。

27日の昼過ぎの熊坂は、おだやかな秋の陽を浴び、平穏そのものでした。また、静岡へ帰る途中、沼津の三津付近で皓皓と輝く月に気づいた時は、本当に台風が・・・と一瞬不可思議な感覚におそわれたことを覚えています。

【そして、あれから56年たった今、私が思うこと】

 山砂で埋め尽くされていた熊坂がどのようにして、こんなに立派に復興できたのか。遊歩道付の狩野川堤防、整備された記念公園や道路、水路を備えた住宅街、区画された水田、下流には放水路が完成されるなど、現在の姿を拝見する時、災害直後の熊坂を知る者として人間の強さ、たくましさに感心させられました。

 熊坂地区が今の姿に復興するためには、台風の直接的な被害とは又別に、地域の方々は精神的にも経済的にもより大きな犠牲を背負わされたことを思います。復興には、先祖伝来の大切な土地を提供された方々をはじめ、こうした災害を防止するための研究、施策に日夜奔走された行政関係の方々など地域全体は、勿論多くの方々のいろいろな協力があったればこそで、創造を超えるご苦労があったことと思います。そのことを思うにつけ、熊坂の悲劇はお蔵の奥や棚の上に仕舞い込んではいけない。絶対に風化させてはいけないと思いを一層強くさせます。

熊坂の悲劇、そのすべてを教訓として未来へ残していこう、語り継いでいこうと云うのが、今回のこの催しの1つの意義だと思っています。

物理学者であり、文学者でもある寺田寅彦博士の有名な言葉に「天災は忘れた頃にやって来る」という名言を残しておられます。主語の天災が受け身のしかも過去形になっています。今風に云えば「天災は忘れられた頃にやって来る」となります。噛みしめたい言葉だと思います。

地球に住んでいる限り、あらゆる災害と共存していかなければならないのが人類に課せられた宿命です。

博士の言葉を裏返せば「人々が天の災を軽視したり、その恐ろしさを忘れたりしなければ天災も災害にはならない」と云うことであり、私流にもっと突き詰めて云えば「天災も見方によっては人災である」と教えているのだと思います

最近、気象庁は災害予報の時「かって経験したことのないような・・・」とか「10年に一度と云う極地的な大雨・・・」などと云う表現で警告しています。

狩野川台風の雨は、まさに「経験したことのないような大雨」であった筈です。その極地的な大雨が狩野川台風を氾濫させ、流域を未曾有の大災害へと巻き込んだのです。

「天災は忘れられたる頃にやってくる。」と云う警告は狩野川台風を昔話にしてしまってはいけない。狩野川台風を歴史の一駒として

捉えるのではなく狩野川台風の教訓を生かしなさいと言っておられるのです。昔話にしてしまうと又天が怒り荒れ狂いますよと教えておられるのです。今日という日を機会に、それぞれの立場で今一度、考えてみてはいかがでしょう。提案させていただくと同時に、私自身の戒めともしたく思います。

 このことを結論として私の話を終わります。

 

                 水晶山の会設立総会講演より

2014年

9月

26日

9/26狩野川台風と水晶山の会

水晶山頂上の展望台に立つ
水晶山頂上の展望台に立つ

昭和33年9月26日に狩野川台風は発生しました。狩野川流域に大きな爪痕を残し、1000名を超える死者・行方不明者を出しました。近年、環境の変化に伴い全国各地で大雨、洪水の被害が発生しています。今年、狩野川台風から56年、放水路完成から50年が経ちました。当時の経験者の年齢も高齢化し、その記録を残していく作業が国土交通省で始められます。大仁橋たもとの水晶山は、狩野川台風の最大の被災地の熊坂を俯瞰できる貴重な場所です。災害の記憶を風化させないためにも地元の力で水晶山の整備事業を始めます。「水晶山の会」を9月26日に発足しました

0 コメント

2014年

7月

02日

7/2京都市行政視察

先進観光地の京都の取り組むを学び、伊豆の国市の観光課題を抽出しました。

・観光動向調査の実施。

・地元ならではの観光計画の立案。

・観光政策実行組織の確立。

・学識経験者との連携。

今後の一般質問の中で、提案していきたいと思います。

0 コメント